= まーちゅーさん =
こんにちはTOMMYさん
いつもお世話になっております。
子供と復帰の頃の話をした時に、ドルでおつかい行かされてお釣りを落として母に叱られたこととか思い出しました。復帰記念にニコニコマークの下敷きやバッチを貰った記憶など・・・。
一番気になってるのは、子供の頃裕福ではなかったので友達の買い食いについて行っておこぼれを頂いた記憶。ミッキージュース、1等〜4等位?あったくじのお菓子(小豆の豆、ストローみたいな筒に入った駄菓子)など。
その皆さんが言う「一銭まちやー」って私の中ではよく1セントで買い食いしていたので「1セン(ト)まちやー」のイメージが残っています。もしかして私(だけ?)みたいに勘違いしていた方っていらっしゃいますか?
あと、アメリカ軍が作ったB円(1948〜1958年)ドル(1958〜1972年)世代の面白い記憶、使っていた方々のお話も投稿頂けると嬉しいです。
基準的な値段や物価、平均給与は○ドルだったとか、沖縄そばはいくらだったなど・・・子供に話して何となく理解出来そうなお話お聞かせ下さい。
宜しくお願いします。
確か公務員の初任給が40ドルだったはず。私の父は大工の棟梁で120ドル貰ってました。
「一銭まちやー」=「1セン(ト)まちやー」のイメージ 一緒(笑)
お小遣いが1日10セント、パンと牛乳を買ったら終わりだったけど、1センマッチャーだと干し梅買って、
チロルチョコ買って風船ガムに黒棒、後紐を引っ張るとあたりは大きな飴だった、それでもまだお釣りがあった。
復帰した時は1ドル=360円だったから貯金が目減りして、物価が上がって損した感じで皆んな不満を言ってたよ〜。
小遣いが10円になったけど飴玉一個買ったら終わり、50円にしてもらったけどパンも買えなかった。
今、おいくつくらいの世代なんですか?
昭和44年~45年くらい、タクシーの基本料金が10セントから15セントくらいだったでしょうか。国道330号が工事中で、浦添方面は運転手が道がわからないということで断られたこともありました。
あと、同時期お正月に琉球バスの「初日の出観光」という企画で、当時の安里の本社を出発して東村の青年協力隊の施設?でご来光を拝んでくるというのもありました。
いろいろありましたね。
いつのまにか、小銭のセンがエンになりました。子供だったのでドルの記憶はありません。
近くに外人住宅があったのでハロウィンが楽しみでした。あの頃アメリカのお菓子は特別だったなぁ。
皆さんコメント有難うございます。m(_ _)m
タクシー初乗り10~15セント位だったんですね。なるほど・・・
「1セン(ト)まちやー」一緒の方がいてすっごく嬉しいです☆
2015年4月30日 at 10:10 PMどぅしぐわーさんの質問にあった件について、
私は50代でドル使った世代です。
ドルといっても25セントまで。1ドル札は高額なので持ったことがないです。
多分B円はもう少し上の世代、私の親世代の方々が記憶にあると思います。
あと、思い出して子供に話したのは、
商店ではたまごは段ボール箱のままバラで売られていて、自分で選びビニール袋に10個詰めて買いました。現在みたいにパックに入ってないので持って帰るのが大変だったとか、
当時、炊事は石油コンロだったので、一升瓶を持たされて石油を買いに行かされたこととか・・・。現在では考えられない(>_<)危ないことさせられてたな~って本当思います。
親がB円のことを時々「軍票」って言ってました。
資料で見たら確かにお札に軍票って印刷されてます。
沖縄以外の地域も復帰まではB円(軍票)って使ってたのか気になってきました。
ご存知の方いらっしゃいますか?
引き続き復帰の頃の記憶について、コメント宜しくお願いします。
そうでした、私も小学校の頃一升瓶持ってお店に行って店の前で瓶を割って泣いていたら、お店の人が瓶をくれたことがとても印象に残ってます。
石油だと思ってましたが、子供に石油を買いに行かせるかな油だったかな?と思ってたところでした。スッキリ!です。
あの頃は古島あたりは山道で田舎だったからタクシーに断られたそうです。
私の姉は昔幼い頃、おつかいでボウルのような入れ物を持たされてお店に豆腐を買いに行ったが転んで落としてしまい、集めて拾って帰り、親に「落としたでしょう?」って聞かれても「落としてない」って答えたって。
ボウルの中は砂も入っていて原形をとどめていない・・どう見ても落としただろうって状態なのは想像出来ますから兄弟で集まった時、何度かその話聞いて涙が出る程笑ってしまいます。子供心、切ないのに笑える。
あの頃は、小さい子に容器持たせて失敗するってリスク本当多かった。
懐かしい話ばかりで涙がでそうです(笑) 1ドルあれば… 糸満から那覇まで遊びに行って、お昼ごはんにソバを食べて、兄弟にお菓子()
失礼しました。 続きです… 兄弟に小さなお菓子をお土産に買いました。
那覇ですが、あの頃は糸満からバスに乗ってオバ〜がタライに魚を入れて頭に乗せて売りに来てました。
私はミーバイが大好きで、いつも母に「ミーバイ買って〜」とおねだりしてましたが、母が「お金がないから今日はかえないよ〜」と言ってもダダをこねてたら、「お金は次でいいから持って行きなさい」と言われ、母が「いつ払えるかわからんよ〜」と言ったら「払える時でイイヨ〜持って行きなさい」とミーバイをくれました。
懐かしいです。 沖縄復帰の時は母の日で、カーネーションを買いにドルと円を持って行って両方使ってカーネーションを2本買ったのを覚えています。
私は、復帰前の沖縄、復帰の日、復帰後、道路変更の730、昭和、平成、バブル、バブル崩壊、色んな時代を経験できていい時代に生きられてよかったな〜と思っています。
復帰前の記憶ですが・・
アンパン、ペプシコーラ、ベストソーダ、平蒲鉾などが5¢コーヒーシャープのちゃんぽんが25¢、映画は確か50¢、ダンスホールは60¢、タクシーは10¢からバスはあまり利用しませんでしたので不明ですが、初代サニー1000の新車が千ドルでした。
私の時給は18¢給与は35~38$、同年代の軍作業員は50$近く貰っていました。
家賃1ルームで12$う~んあとはうら覚えで確かな記憶がないのです。
知事公舎(当時は主席公舎)近くで育った50代です。
25¢硬貨のおかげで4分の1という概念が身についたかも。
5$札を持たされてお使いに行った時は、怖くて怖くてダッシュで往復しました。
始めて県外に旅行したときは、パスポートを作って何かの予防接種を受けました。
飛行機は手が届かないから船で3日かけて神戸へ。
税関で荷物を開けられて、子供もボディーチェックされて、すごく緊張した覚えがあります。
月刊誌は発売日から3週間くらい遅れて入って来るので、懸賞に応募したくても締め切りに間に合わず。復帰後の中学時代は懸賞マニアになりました。
琉米文化会館には洋書がいっぱいあって、子供向けの絵本も豊富。
ひらがなさえ読めない頃から、近所の子供達と連れだって「本を見に」通っていました。
当時の本は県立図書館に保管されているようですよ。ちょっと興味あるなぁ。
1~2¢で漫画を貸してくれる貸本屋というのもありましたね。
壷屋小学校の近くに「店内で読むなら無料」という太っ腹の貸本屋がありまして、校区を越えるのにドキドキしながら通ったものです。
漫喫好きはここから始まったんだろうなぁ。
たしか$1=¥380?360だったんですよね。(夢があるなー)
未就学児の頃、タンスの引き出しを交互にして、上にある母の財布から
1¢を取ってまちやーぐわーに小豆のアイスケーキを買いに行った。
盗んだのをバレてヤーチューされたのを思い出した。
あんな小さいのに、アイスの為なら危ない事をした私って、しにがちまやー。
コーヒーシャープってなつかしい響きです。あの頃の商店街、思い出します。
映画は確か50¢だった・・・の話で思い出しました。
私の家の一部屋に数年間、姉妹で間借りしている方々がいました。
ある時(間借りの)お礼だったのかお正月だったからか、急に私だけ映画に連れて行ってあげるってことで(地名がバレるので名称は書けませんが)那覇に点在していた××劇場へ一緒に
連れて行ってもらいましたが、壺振り(サイコロ振り)の映画でした。畳の部屋で何度もサイコロが振られ、「丁か半か」「ピンゾロの丁!」みたいなセリフとサイコロのアップばかり・・・。サイコロを振っている女の人は着物の肩半分を出して目力もあって子供ながらにもカッコイイって思いましたが・・・内容は全然わかるわけがない・・・。帰りにお姉さんが
「これしかやってなくて(大人向けの映画で)ごめんね」って。
初めて観た映画だったので良いか悪いか子供なので判断出来ませんでしたが、大きくなってあの映画は壺振りお竜(江波杏子)シリーズものだったと知りました。
当時は任侠ものも流行ってましたし、仕方ないですよね。
その後お姉さん姉妹は私達家から引っ越して何年か近くに住んでいました。
私は迷惑がわからない子供だったので何度か遊びに行ったりしました。
快くもてなしてくれていましたが、さぞ迷惑だったのかも・・・。
小学校低学年だったので物の金額はほとんど覚えていませんが、色々印象深かった出来事について思い出しては大人になった現在、大人目線であの頃の大人の事情に思いをはせながら「(もしかして)そういう事(意味)だったのか・・・」と考えたりしています。
当時切手の収集をしていた叔父さんがいて
琉球切手(¢)を買うために
並んだ記憶が有ります。
今考えると、復帰前と復帰後ってアメリカ人が近所から減ったのと、ドルが円に変わってパスポートと永住許可書や就労許可書がいらなくなったくらいで、本屋さんも日本の本ばかりでマーガレットやコミックなどもあったし、テレビも日本の放送で赤どう鈴之助や8時だよ全員集合、プロレス、野球、も日本のものだった。
懐かしいですね。
私は復帰の年は6歳でした。その日も1セントを持ってイッセンマチヤに行ったらドルでは買えなくなったから円持って来てと。
母に言うと(いくら?か聞いて来て)と聞くと(10円)だったので1円が10枚赤いお金?
子供ながらに高くなったと思いました。
イメージとして1セントと1円は一緒と思ってたので。
6歳の時に為替の事を知った。
2015年5月1日 at 3:35 PMの
××劇場ではなく××琉映でした。
m(_ _)m
80年代に上京した直後、ほんとに時々なんだけど「日本語がうまい」と褒められました。
老後に海外移住を夢見ている九州出身の友人は「沖縄出身は英語の心配いらないもんね」といまだに不満げ(違うから)。
同僚達からは沖縄の方言を教えてくれと頼まれました。
ところが標準語励行をまともに受けた私は、祖父母や両親が話す方言を聞いて育ちながらも、自分ではまったく話せなくなっていました。
アガーだのサンケーだの、ふいに口をつく言葉でさえ、担任が首に方言札をぶら下げるんですもの。
結果、かろうじて操れるいくつかの言葉、クルサリンドーやスグラリンヤー、ヘークナーユーフルンカイイレーやユグリハイカラーとか、県民性を疑われる言葉を伝授しました(ワチカバスンドーも教えたような気がする)。
たぶん誰も覚えていないと思うけれど、なんかすみません…。
復帰と同時に西日本宝くじが発売されました。
塩センベイが1センと ベストソーダが5セント
渦巻きパンも5セント なつかしいなぁ~
あと どこの商店の前にもドラム缶が横に置かれて
蛇口が付いてて石油売つてたね
夜になると盗難予防でチェーンで鍵かけてた
皆さん色々なコメント有難うございます。
2015年5月1日 at 5:18 PMどぅしぐわーさんの「ヘークナーユーフルンカイイレー」は
懐かしく吹き出しました。
幼小の頃は失敗したり悪いことすると「トットロー!」って叱られ孫の手でたたかれました。泣いても叱られ痛さと怖さで泣くのを止められずしゃくり上げていると更にたたかれるし、ご飯も食べさせてもらえなくなるので、父親はすごく怖かったです。
母親に怒られた時は「ミンチャンバ!・・」ってぶたれたり、あと「ニジラリィンヤー」って言われふとももをつねられたのがでーじ痛かった。(>_<;)
又、母親の表現で豪雨というかすごい大雨のとき、「雨がドソドソーって降ってる」って話すのでザァーザァーより凄さを感じるので、思わずうけてしまっていました。
私の両親はバリバリ方言使っていましたが私達子供には標準語で話していたので私自身は方言使いこなせていません。
なので単語の「ちゃーすが!」「アッりアリアリ」「メーカラクサー」など子供とふざけたやり取りに使うくらいですかね。
琉映の話ですが、琉映前を通る時、成人映画のポスターが結構スゴ!
くて直視出来なかったです。
クラスの誰かがプラスチックのコップとサイコロで壺振りお竜の真似して「入ります!」ってやるけどサイコロがどっかに飛んでいってたの思い出しました。
あと小学校の頃、男子は学校にヌンチャク持ってきてブルースリーのまねしてて体にあたるとすごく痛そうにしてました。
友達の家に遊びに行って人生ゲームもしましたが、なぜか花札も「青たん!」「赤たん!」5点、5点「猪・鹿・蝶!」ってあれっ何点でしたっけ?揃うと点数加算あった様な・・・。
私の世代って”結構何でもあり”だった気がする・・・。子供には話しにくいこと多いかも。
新聞配達は小学生や中学生がアルバイトして小遣いを稼いでいて羨ましかったな〜、あの頃はベトナム戦争中で、叔母がコザに住んでいたので何度か行きましたが、アメリカ人で溢れていました。信号待ちをしていると隣にいたアメリカ人がチップと言って1ドルをもらった記憶があります。
雨が降ったら濡れたらダメだよー、放射能で頭がハゲるよーって言われていました。中国が核実験をしてしてたようです。
ケーキは、まだバタークリームで誕生日しか買ってもらえませんでした。
雨が降らず断水もよくして給水車が来て並んで水をもらっいました。
まだ小学生だったからか、楽しい思い出しかありません。アメリカの植民地っていう人いるけど、周りの人たちはみん懐かしそうに話します。
コタツはまだなく火鉢でした。