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【お墓】察度王はどこに?

= はなさん =

名が残っている琉球王のお墓はあるのに、察度王お墓が分かりません。
どこに祀られているんでしょうか。
分かる方いらっしゃいませんか?

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25 Comments.

匿名さんより

一説によると。
首里の山川陵に葬られたものの、王統が滅んだ際に子孫によって、遺骨が持ち出されたそうで。
持ち出された遺骨が納められたお墓は大里城跡にあるとも、宜野湾の我如古にあるとも言われてますね。

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匿名さんより

首里の山川陵(西の玉陵)
古い墓が3基
・西の玉陵
 王の側室や幼くして亡くなった王子・王女を葬る墓。
 沖縄戦で日本軍の防空壕として使用された、墓内の
 厨子の一部は玉陵に移された。
・壷川松尾(つぼがわまーちゅー)
 読谷山王子(後の尚真王)の孫が生母の郷里である
 湧田に墓を造営。四代目の孫が壷川松尾に墓を造営。
 湧田・壷川の両方とも大正初期に上之屋に移され、
 さらに首里山川に移され現在に至る。
・金武御殿の墓(きんうどぅんのはか)
 八代目尚豊王の生母の墓として造営

        那覇市の山川陵(西の玉陵)説明より

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はなさんより

皆さんありがとうございます。
宜野湾市我如古にあるとしたら、名前を変えて祀られてるんでしょうか。
察度王と武寧王は同じ場所なんでしょうか。

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匿名さんより

戦国時代の政権交代、負けた方は一族郎党みなごろし
報復を恐れて幼子乳飲み子まで粛清。
前王様が強いほど墓もふくめて徹底的に破壊されたかも
第1尚氏3王(4代、5代、6代)の墓が那覇市内一般民家の庭に
ひっそり小さく建てられている。

琉球の王統
瞬天(1187-1237)
・瞬天王統 3代73年  1187-1259
・英祖王統 5代90年  1260-1349

・祭渡王統 2代56年  1350-1405

・尚思紹王統 (第1尚氏)7代64年 1406-1469
・尚円王統(第2尚氏)19代410年 1470-1880
                   1879年廃藩置県
      現在末裔23代、24代が東京在住。

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はなさんより

匿名さん、詳しく教えて頂きありがとうございます。
《戦国時代の戦、負けた方は一族郎党みなごろし。
報復を恐れて幼子乳飲み子まで粛清。》
そういうことがあったから、一族を守る為に名前を変えたり、いろんな説があるわけですね。
察度王や武寧王、もしかしたらお墓崩されてるのかもしれませんね。
魂は残ってるはずなのに。

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匿名さんより

 察渡王の父親である奥間大親の墓所は宜野湾市の森川公園内にあり、その近くの拝所には奥間大親や天願按司泰期の位牌が祀られていますが、察渡王の位牌はありません。
 察渡王の位牌を祀る旧家も宜野湾にあるようですが、私は存じません。また墓所もはっきりとは分かりません。
 三山時代の北山などもそうですが王朝交代が激しかった割には、沖縄は滅んだ旧王朝の家系が存続している方だと思います。
 例えば、奥間大親の実家の可能性があり、察渡の異母弟である泰期が王朝滅亡後に帰って続けたと云われる国頭の奥間鍛冶屋(かぎやで風のアガリカンジャー)は、何故か尚巴志に滅ぼされず存続し、金丸(後の尚円王)を助けたとされています。
 各地の按司達は古代から通婚していたでしょうし、大本家は天孫氏だという親族意識や、国王の統治も緩やかだった事などで族滅させる程追及しなかったのかとも思えます。余り残酷だと久米の華人にも知られてしまい、冊封を受ける場合に明の官吏に余り良い顔をされないでしょうしね。
 

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一合さんより

察度、武寧のお墓は山川ウドゥンでは無いです。
場所詳しく書けませんがウガンス屋は行った事有ります。
はなさんどうして捜されていらっしゃるのですか?

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はなさんより

2月2日の匿名さん、ありがとうございます。
三山時代の歴史を辿ると、本当に大変な時代だったんだなと思います。按司達の通婚や、北山で名を馳せていた方がなぜ大里にいたのか…。三山時代の方の謎は多いです。

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はなさんより

一合さん、ありがとうございます。山川御殿ではないんですね。
実は、シジを探してる最中です。
為朝、察度、安里ヌ比屋、大城按司…儀間真常。
察度王のお墓が探せなくて、いつかは分かるの日が来るのかな。とは思ってるんですが…。

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匿名さんより

チジが王家の人って結構いるんですね。私も王家がチジです。やっと悟りお墓を探し全部廻ったところです。はなさんも察度王のお墓探せたらいいですね。そこでやっと始まりますので。

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はなさんより

10:22匿名さんへ
ありがとうございます。
そこから始まるんですね。緊張、不安、期待、喜び、いろんな感情が湧いてきます。
私の両親ができなかった事で、私にかかってるらしいです。

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はなさんより

一合さんへ
よければ、ウガンス屋の場所を教えていただけないでしょうか。
お願いします。

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宮城弘信さんより

はなさん、貴方と同じ様に察度の所縁と言われるものですが、五里霧中で
何の手掛かりも無く困ってる者です、つきましては今後情報を共有することは出来ないでしょうか、祀られているところが分かればと思います。

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匿名さんより

はなさん、宮城弘信さん、宜野湾市我如古の新垣家が察渡王につながると言われていたようです。私は奥間大親の子孫ですが次男腹なので、まだ我如古に伺った事がなく断言はできませんけど。

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サッチさんより

察度王・武寧王の位牌は旧大里村のある神屋に祀られています。

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匿名さんより

サッチさん、察渡王の母の再婚先だと伝わる大里を頼って行ったのかもしれませんね。

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サッチさんより

察度王の子は武寧王の他に何名かいて、その中の1人に大里按司がいます。この大里按司と同家に察度王と武寧王が祀られています。
島添大里城主の天孫氏系の初代大里按司の娘が舜天王の母親で、息子も大里按司です。
後の時代、察度王の子、大里按司が大里城主になったのではないかと思われますが・・・

同家には天孫氏系大里按司、その娘(舜天王の母親)、察度王、武寧王、汪応祖(二代目南山)など他にも何人か祀られています。
汪応祖は高嶺大里(糸満市大里)の南山城の二代目南山王ですが、養子になったので、その家に祀られています。

ちなみに舜天王は北中城村内に祀られています。

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サッチさんより

察度王の子は武寧王の他に何名かいて、その中の1人に大里按司がいます。
この大里按司と同家に察度王、武寧王は祀られています。

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銭氏さんより

察度のお墓を探してるのは子孫なのですか?
位牌は王様になっているので宜野湾や他にもあったと思いますがお墓はあがり大里だったと聞いてますが、

はなさんは!うじはなにですか?
察度の子供はぶねいいがいにも沢山いますが、その中に兼城あんじの孫にあはごんまごろうがいて私はその子孫ですが!
はなさんはどのつながりからの子孫でしょうか?
私はそのあはごんまごろうの父親が誰かどこにまつられているか探しています

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匿名さんより

奥間大親から分かれた家系は多いのに、某ユタだか神人の本では「察渡王の家系は中国人で子孫は帰国したのでは?」と酷評されているので、ここを読んでいると、同じ門中の方々が多くて嬉しくなりました。
 どうか、同じ門中の全ての方々と沖縄県民が末永く幸せでありますように。

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サッチさんより

匿名さんへ
察度の母の再婚先は高嶺間切大里村(糸満市大里)の大里です。

察度王の位牌が祀られている場所は大里間切大里の大里です。

地名に大里が2カ所ある為、間違いやすいですが・・・

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しぇーくはるさーさんより

はなさんへ         以前読んだ本(首里の地名-その由来と縁起)によると、お墓の場所は首里城前のT字路を崎山赤田方面に向かうと、途中首里城南口バス停があります(ウフアカギが目印)、その後ろの崖(グシクヌシチャー)を見上げると途中にフェンスされている所があり、そのあたりが察度王のお墓だったと考えられている所だそうです。       地元ではジングンジューウスメェヌ墓(とてもケチなおじいさんの墓)と呼ばれているそうですが、近くのお寺(万松院)では王のお墓との伝承があり、 共に郷土の歴史研究者考古学者でもある久手堅憲夫氏(この本の著作者)や多和田真淳氏などからは、場所や記述口承などから ジンクンシューウシュメェ(仁君主御主前)と尊敬された察度の墓とみられる、という事です。 

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