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【復帰】47年前沖縄はアメリカだった

= サニーさん =

復帰47年ですね
沖縄県内外でどんな感じだったんでしょうね
転勤族や移住でいらっしゃってる県外の方はどうでしたか?
※単純に復帰話で花を咲かせたいだけなので・・
そこは分かるよね〜!【 ̄_ ̄】

1+

37 Comments.

匿名さんより

復帰の年に生まれたので
その時代がどうだったのかは
親の話でしか知りませんが、
誕生祝いの祝儀はドルだったと聞きました。

1+
匿名さんより

未だにアメリカ統治の感覚の人間多いよね~
特にバイク(原付)乗り。何で右側走るかね~

8+
匿名さんより

よく覚えてますよ。
当時は未就学児でしたが、まちやぐゎーに1セント持ってお菓子を買いに行ったら
「今日からこのお金は使えないよー、可哀想だから売ってあげるけど明日から円持って来てよ」と言われ意味がわかりませんでした。
当時は内地の人は本当に珍しくて、小学校に一人だけ自衛隊員の娘さんがいたけど雰囲気が暗くて可哀想でした。
色黒の貧しい家庭が多い沖縄で辛いんだろうなと子供心に思いましたよ。
復帰後からポットン便所とかも減っていったし徐々にコンクリートの家も増えて来ました。
便利で豊かな今より楽しい時代だったかもしれません。

6+
匿名さんより

外人(白人)さんはよく見かけたけど、内地の人は全くといっていいほど見なかったな。

6+
匿名さんより

下水道も普及してなくて汲み取り式便所。
なので公衆衛生もよくなくて赤痢などの伝染病も普通に発生してた。
消毒薬をまく軽トラが街中走ってて独特のにおい。
蚊の駆除のために白煙をまくトラックの後を追いかける子供たちの姿は昭和の夏の風物詩。今だと考えられませんが。

13+
匿名さんより

沖縄は下水道整備は高レベルだと思います。それでも大型施設や建物ではバキュームカー見掛けます。道路や雇用でも助けられた面もあるでしょう。だけども、マイナスなリスクが有り過ぎて、可哀想な沖縄は変わってません。真面目に深刻に向かい合うと現実は悲惨です。適当が必要な心なんです。

3+
匿名さんより

復帰は昭和47年!
私は五年後に産まれました。
ドルは覚えていませんが
家には沢山ドルがありました。
今でも実家にあります。祖母の形見!
下水道は小学生の時 衛生は悪かったし、
小学校入学した時に1年生はポットン便所でした。
那覇市なのにーーー涙
公衆トイレもポットン多かったな。
那覇市なのにーーー!
最後に見たポットン便所は漫湖公園。
20歳の時でしたね。
あれから20年は経ちました。
沖縄はとても綺麗ですよ。
ゴキちゃんも普通にうじゃうじゃ居たけど
今ではあまり見かけませんね。
汲み取り車も全然見ませんね。

1+
匿名さんより

母が若い頃は沖縄へ旅行するにはパスポートが必要だったと言ってました。その世代の方で沖縄をあまり訪れない方にもパスポート必要?と言われたことがあります。
アメリカだったという印象が根強く残ってるんですね。

2+
匿名さんより

中学生の時家の中の戸棚とか漁ってたらドルが沢山出てきて銀行で変換して洋服買いました。親にはまだ言ってません(;o;)

1+
まりきんさんより

自分は嘉手納出身ですが、復帰前後に同級生に他府県出身の方多かったですよ。
クラスに一人以上はいました。

現在半分以上は沖縄に帰ってきてウチナームークやウチナー嫁になってます。
同級生がいる沖縄は暮らしやすいんでしょうね。

1+
匿名さんより

小学校低学年で復帰を経験しました。

自分は中部だけど、実は下水道の整備は全国でもトップクラスだった。家も幼稚園入る前から水洗。これは当時、アメリカの軍人相手の飲み屋、レストラン等の商売するには米軍当局が事前にトイレが水洗か、キッチンの衛生状態は、とか検査し、合格したら「Aサイン」と呼ばれる検査済証を出していたから。兵士にはAサインの店以外での飲食を禁止したから皆が競って水洗トイレを設置するようになり、結果としてコザや嘉手納、北谷の下水道普及率が高くなったという背景がある。
「那覇なのに」ではなく、「米軍相手の飲食店が少ない那覇だから」汲み取りが多かったって話。

11+
匿名さんより

復帰前は小さかったのでマチヤーでの思い出ぐらいしかありません
何を買うのが躊躇してると少し年上の子からお金を取られたり(笑

復帰後の小学校4年生の頃に内地から転校生があって18:38さんが書いてるように自衛隊の娘さんでしたがまるで外国から来たおとぎ話の登場人物のように色白で綺麗で物静かな少女でした
服装も真っ白なブラウスが印象的でした
子供心に内地イコール夢の文明社会のような憧れみたいな感じでしたね

4+
匿名さんより

コザ出身です。復帰してもまだまだアメリカって感じで、夜は米兵さんで溢れてました。うちのオバアが喫茶店に行くといつも「ねぇさん、先にアイスワーラー頂戴」と言ってお冷やをもらっていたので小さい頃は「アイスワーラー」が日本語だと思ってました「アイスウォーター」のことだった。逆にお冷やっていう日本語を知らなかった。

7+
S37さんより

船で九州に行ったのを覚えてます。
子どもだったけどパスポートもあったな。あのパスポートはどこに行ったのだろう?保管しておけばよかった・・・

2+
匿名さんより

復帰運動に熱心だったのは公務員さん達でしたよ、だって給与が倍以上になるから、本当は復帰しないでUS人になりたかった。

2+
匿名さんより

宮古島出身、74年生まれです。
幼稚園、小学校ともに和式の水洗トイレでした。校庭の外便所はポットンでした。
5年生のとき撤去されたような記憶があります。
当時の上野村に自衛隊基地があり今でも駐屯地、自衛隊家族の施設があったと思います。あと、かままみね公園も自衛隊施設だったと思います。クラスには本土出身者が数名以上いました。自治体に入らず本土出身者で集う地域があり、久松と呼ばれる地には本土出身者達の墓地もありました。
現在の下地島空港も自衛隊機の発着地だったと思います。

0
匿名さんより

トゥーナー ツナ
ストゥー シチュー
ビーチパーリー ビーチパーティ

オバー、かっこいいぜ

9+
匿名さんより

私は戦後生まれの南部在住。米軍関係の人も米軍さんへ商売する人も周りにいません。
米軍統治下でいいことはあったのですか?
復帰前に人々が楽しく生活してたなら幸いです。
若しくは楽しかったのは基地の周辺だけでしょうか。ほ

2+
匿名さんより

復帰前まで交通ルールはアメリカ。マイル表示だったし車は左ハンドル。交差点での右折(当時の通行区分で。今なら、左折の場合の話)はドライバーが安全を確認して大丈夫なら信号が赤でもOKだった。

復帰直前に大阪から来た親戚をオヤジの運転する車で案内してたら、赤信号で右折するので大声を出してた。オヤジがアメリカのルールを説明してたのでよく覚えてる。

3+
匿名さんより

縫製業してた叔母夫婦とコザの生地問屋に仕入れに行く際に着いて行って街にあふれる米兵さんが異国の様で怖かった。母親のボロ中古車だったので駐車中にクラクションが壊れて鳴りっぱなしになった時にスラっとした長身の黒人のカップルがリンゴを齧りながら近ずいてきて窓から手を伸ばし、ハンドルからクラクションカバーをむんずと鷲掴みにして外したら鳴り止んで去り際に顔いっぱいの笑顔でウインクしてくれてすごく格好良かった。 
家族で想い出話をする時に自分が可愛かったからだと誰も信じてくれない無念。

6+
匿名さんより

南部住みです。
学生運動?住民運動が盛んで
「沖縄を返せ~♪」という歌があり、
沖縄返還活動に参加してたようで
懐かしい!と時々、歌ってますw

しかし、母が就職は基地内希望で嘉手納カーニバルの常連でした。
「復帰っ子」ということばがかなり使われてましたね。
私は復帰後、産まれですが、その言葉よく聞きました。

2+
匿名さんより

復帰のころはベトナム戦争が真っ最中で現在の58号線西側の米軍施設では爆撃を受けて
メチャメチャになった車両がたくさん置かれていました。
当時小学生で「いずれ沖縄も巻き込まれるのでは?」と怖かったです。

2+
匿名さんより

復帰前に通っていた泉崎の私立幼稚園(3歳~就学前)は1学年40人位だったと思うけど地元沖縄の子は5人位でした。
他は全て県外から来た子。
当時、琉球政府から沖縄県に変わる事で仕事に来た公務員の子たちや企業の重役の子。
地元の子も県内トップ企業の社長の子や教育関係者の子で、紹介(推薦)がなければ入園できませんでした。
小学校入学前が復帰の年で小学校の入学式は沖縄県となっていました。
幼稚園児だった復帰前は東京や鹿児島を行き来していたので当時のパスポートは今でも大切に保管しています。

2+
匿名さんより

復帰前の沖縄は街と言えば那覇と嘉手納だったそうです。
映画館も銭湯も那覇と嘉手納にあり、商店街が賑わっていたのも那覇と嘉手納だったそうです。
軽便鉄道の始発と終点だったからなのでしょうか?
そのせいもあってか嘉手納周辺は県外の方が多かったそうです。

1+
匿名さんより

アメリカー、ドゥマリカー、クマリカーって言葉が流行りました!
「アメリカ人はどこに行った?ここら辺にいるよ!」みたいな意味合いで。

1+
匿名さんより

近所の商店(まちやー)に木枠のガラスケースに入った大きな稲荷寿司と大きな巻き寿司、それと甘いコロッケが今も食べたくなる。
子どもの私がお遣いに行くと必ず店のおばちゃんがザラメが付いた赤い飴をくれた。
夕方になると、ゆし豆腐が車で移動販売してるから豆腐屋の笛の音が聞こえたら鍋持って車を追っかけて行った。
各家庭で出た残飯は電柱に掛けてある一斗缶に母親がまとめて入れに行ってたようだった。
それが豚の餌になってたみたい。
懐かしい。
住宅街の道をNHKの大きい車がゆっくりとした速度で通ると子供達が後ろから着いて行く、そうすると車が停まって子供達にひょっこりひょうたん島とかNHKのキャラシールをくれた。
那覇市内です。

3+
匿名さんより

23:37さん、そりゃ大袈裟というか言い過ぎ。映画館は昔はどこの街にも複数あったし、当時のコザも宜野座も浦添も嘉手納より人口多いよ。

7+
匿名さんより

ベトナム戦争真っ只中の頃、北爆(北ベトナム爆撃)に飛び立つB-52が真夜中、午前2時くらいからランナップ(エンジン試運転)を始め、午前4時くらいには空中給油機、続いて爆弾満載したB-52が飛び立って行った。嘉手納、北谷、コザの街は夜中ずっと今の旅客機などとは比較にならないくらいのとんでもない爆音が轟く。東に向かって飛び立つ時は具志川や石川も。
あんな環境でよく生きていたものだと思うよ。

3+
匿名さんより

21:10さんの仰るのは浦添のキャンプキンザーの事ですね。今58号線の拡張工事やってるあたり、屋冨祖通り入口やバーガーキングあたりまでの道の真向かいにはモータープールがあって、破損した米軍車輌(軍用トラック)がズラリと並んでいましたね。

2+
匿名さんより

ナイチャーが多かったからか那覇は特にナイチャーへの偏見が凄かったです。

3+
海月さんより

復帰して数年経っても軍港には、戦地で使った赤土が付いた戦車やジープ等の軍車両がありましたよね。
たまにそれっぽいのがあるのを見ると、まだアメリカー世~だなって感じです。
1950年代父は、進学で上京した時のパスポートを、復帰後もう要らないからと捨てたみたいで、今持ってたらと家族だけが悔やんでます。
船で鹿児島?まで行って、そこからは汽車で東京まで大変な移動だったけど楽しい思い出だと言ってました。
子供の頃、10セント持ってまちぐわ~でアイスケーキを買ったのを1番覚えてます。
小豆味で、確か割り箸?の先端に小豆が溜まってて、美味しかったな。

1+
匿名さんより

復帰の年、私は小学1年生でした。復帰の記念にキャラクターの筆箱や下敷き、ニコニコバッジのカバンなどいろんなものを学校でもらった記憶があります。
そう、復帰したら5セントで買えてたアイスクリームが5円では買えずショックを受けた記憶も。
あと、復帰したら基地がなくなるのかと幼心にも思いましたが、何も変わらないサー、と思った記憶も。

1+
エルさんより

こちらのトピックス。大変勉強になります。
私が聞いた話は
沖縄で免許取った当時は右側通行で、県外でその感覚で乗ったら危険な目にあったとか、
今の北谷よハンビータウンは半分以上が
基地でヘリが沢山駐機されてたとか。
沖縄の牛乳パックが946ミリリットルなのは統治下時代ガロン表示だったためその名残りとか。
あ、私は今も親の影響か
歯磨き粉をついコルゲートって言ってしまいます、、

1+
匿名さんより

北谷が現在とまったく違った町でしたね
海側は基地ばかりで北谷のメインストリートは謝刈の坂の狭いくねくね道でした

3+
匿名さんより

復帰前は小学生で転校してきたナイチャーは全員肌の色が白くてビックリしました。また勉強が良くできましたね。ハーフの子供はりきらんぬーが多かった記憶がありますね。

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匿名さんより

復帰2・3年前、10セントで菓子パンとコーラが買えた。
ぜんざいが5セント、金時(かき氷)が3セント、ハンバーガー15セント。
食堂で学生は10セントでそばが食えた。映画は25セント。
ちなみに、1ドル=100セント=360円で銀行で交換した。
ドルに比べ円は単位が大きすぎて慣れるまで時間がかかった。

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