【慰霊の日】家に伝わる戦争体験

= ピース沖縄さん =

来週23日は慰霊の日です。
今年は新型コロナの影響で各地の慰霊祭も縮小又は中止のようですね。
さて、皆さんの家に伝わる戦争体験をここで話してみませんか?
県内県外出身者関係なく戦争について、どう聞いてますか?

脱線することなく穏やかにまいりましょう。
ご協力を宜しくお願いします。

28 Comments.

匿名さんより

私のおばーは防空壕の中で産まれたと聞きました。周りからは子供の鳴き声でバレるから今すぐ殺せって言われたらしいけど、防空壕を出てやんばるの森まで家族全員で逃げた話を小さい頃に聞きました。集団自決で命を落とした親戚や友達が多くいる事も聞きました。

匿名さんより

私のおばあちゃんは、疎開先で「沖縄の家族は全員死んだ」と嘘をつかれて、働かされたと言っていました。その後に家族と再開したそうです。

てんけんさんより

僕の亡くなった祖父は人差し指と中指がありませんでした。子供の頃そこら辺に手りゅう弾や銃が落ちていて、不発弾(手りゅう弾)で遊んでいたら、投げる寸前に爆発したそうです。当時はこの様に負傷した子供が結構いたそうです。

匿名さんより

私のおじいちゃんは、すでに亡くなっていますが、大阪の空襲の時、米屋をしていて、防空壕に入ろうと思ったら一杯で入れず仕方なく店にいました。そしたらその防空壕攻撃されてなくなりました。もちろん上空からです。沖縄は、地上戦でした。

匿名さんより

すいません。先ほど投稿したものです。意味不明な文章流しました。補足ですが、その防空壕の中にいた人たちは、ほとんど亡くなり、防空壕には入れなかったおじいちゃんは助かりました。

匿名さんより

うちの父は宮崎に疎開していました。
沢山苦労したようです
もう80過ぎてしまった
しっかり語り継げるようにしたい

匿名さんより

私の祖母に話を聞くと
「あなた達はこんな話聞かなくていい。たくさん、勉強しなさい」
と、急に悲しい顔でそう言いました。
しかし亡くなるまえ時々話してくれました。弟が死んでしまった。守ってあげられなかった自分の責任でもある。と。

祖母が語れなかった沖縄戦がいかに恐ろしい事なのか私なりに学び伝えていきたいと思ってます。

父の両親は戦争で子供を亡くしてます。殆どその時の話はしなかったそうです。

匿名さんより

亡くなったひいおじい(祖母の父)は戦時は役所職員だったので村民を疎開させたり村民とヤンバルに避難して村と連絡をとる仕事だったから戦地に出征はしないで村民を守っていた。
しかし当時学生だった長男には非難された。非国民だとか言われてしまった。
長男は戦地で亡くなってしまったけど、
九州に疎開した兄弟や、祖母を含めひいおじいとヤンバルに避難した親兄弟はみんな無事だった。
ひいおじいはカジマヤー迎えて100歳まで長生きしましたよ。

匿名さんより

私の父85歳は10歳の時戦争を体験。小学生だった父は10歳だか小さくて、いつも寝坊して走って学校に。
その頃家の近くに軍事施設が出来て沢山の軍人が内地から来てたそうです。
急ぐ父を軍人の車が呼び止め学校まで送ってくれたそうで。若い将校さんで彼は北海道から来たこと。同じ歳の弟がいる事。教師を目指してた事など話してくれたそうです。父に将来は何になるのか?と質問して、父は貴方の様な立派な軍人さんになりますと。すると軍人さんは笑って軍人さんにはならなくて良いよ。と仰ったようです。
何回か送ってもらってたようですが最後にあった日に南部へ行くと行ってさよならしたと。父は歳をとってその話をするようになりました。
なぜもっと早く話してくれたら探せたはずよ。と言うと。
死んでると思うから。とはなしたくなかったようです。
でも、彼の弟は生きてるはずよ?骨も何もなかったらその話するだけでもその方の家族は嬉しかったはずね。と。
私もここでこの話出来て良かった。
誰かにその軍人さんの話したかったから。

匿名さんより

 沖縄戦の話ではないのですが、先日あまり戦争の話をしない親父がちょこっと戦争時の話をしたので後世に残ればと書き綴りたいと思います。サイパン島での話です。
 アメリカ軍に追い詰められて、降参を迫られた日本軍や民間人が、断崖絶壁から飛び降りて集団自決してしまったサイパン島でのバンザイクリフでの話。(天皇陛下バンザイと言って飛び降りたのでその崖のことをバンザイクリフと呼んでいます。)
 親父は(昭和9年生・86才)です。当時は沖縄から両親と兄弟(兄、親父、妹、弟)とで移住していたそうです。父親(おじいさん)は兵隊にとられ、母親(おばあさん)と親父達兄弟で戦火のなか逃げ回っていたそうです。ただ、母親は米軍の流れ弾にあたって死んでしまい、当時2歳くらいの弟は途中ではぐれてしまったとのこと。
で、兄弟(兄、親父、妹)の3人でこのクリフに登る坂を歩いていると途中で日本軍の兵隊さんが立っていたそうです。親父達はそのまま登ろうとすると、激しい剣幕で兵隊さんに「お前たちは登るな!」と怒られたそうだ。仕方なくその場を離れた兄弟は、結局米軍の捕虜となり終戦後沖縄に戻って来て生き残ることができたそうな。でも、あの時の兵隊さんが何故クリフに登るなと言ったのか、今でも真意が解らないと言っていました。
 1.神聖な場所だからお前たち子供だけの者は行くなと怒ったのか?
 2.お前たちはまだ若いのだから逃げて生き延びろとの思いからなのか?
終戦後沖縄に帰った親父は結婚し僕を含め4人の子と8人の孫にも恵まれ今も元気にしています。今でも時たまサイパンに慰安旅行に出かけ、あの時生き別れた弟が生きていないか探しています。いろんなことがあって自分達は生かされているのだと思わせる話でした。終わり。

匿名さんより

祖父は40代で軍人として徴兵されて戦地へ。
足を負傷し片目をうしないました。
あまり戦時中の話はしたがりませんでした。
祖父の戦争体験の話は牛島大尉が自決した日からの話です。
祖父の部隊はその日解散となったそうです。
沖縄軍人は土地勘があるので地元へ帰るとグループになったそうで、内地軍人は何処へ行ったらいいかわからず何人かは祖父達と行動を共にしたそうです。当時は名前も覚えてて良く話してました。
山道を軍服で歩いてると白髭の杖を着いたオジーに出会いそのおじーは祖父達にうちなーんちゅは銃も軍服も捨てて戦はならんどーと言ったので祖父達は銃も軍服も脱ぎ捨てたそうです。
そして歩いていくとアメリカ兵と遭遇しすぐに捕虜となりました。
その時そのままの姿でアメリカ兵と出くわしたら殺されてたと言ってました。
そのおじーはどうしたの?
と聞くとその後探したけど見つからなかったと。
他にも沢山聞いたけど長くなるのでこの辺で。
この髭のおじーは何者だったのかなぁ?

匿名さんより

父方の祖母の話です
大里に米軍が迫ってきて続々と避難してきた人たちが通り過ぎていったそうですが土地勘がなくて右往左往していたらしいです。
そのあと日本軍の兵隊がきて「具志頭には軍がいなくて攻撃がないから避難するように」と大勢が誘導されて護衛されながら今のゴルフ場の辺りを通って逃げたらしいです。
護衛したあと兵隊さんたちは糸数の方に戻って行ったそうですが全滅したかもしれないと言ってました。
祖母と一緒に逃げた集団はほとんどが生き残れたと言ってました。
戦後は仲村渠の避難所を出て実家に戻ったそうです。

サバさんより

うちのおばーは乳児1人を抱えて那覇から南部に疎開したんだけど、赤ちゃんが泣くからって防空壕に入れなくて、いつも防空壕の近くの茂みに隠れていたと。
黒砂糖を赤ちゃんの口元に置いていたから赤ちゃんは全然泣かなかった。それを見た防空壕にいた人が「この赤ちゃんは泣かないから防空壕に入っていいよ」と言われて防空壕に入れた。と言っていました。
おばーはすごい賢い人だったから、どうにかして当時貴重な黒砂糖を手に入れたんだはずな。

匿名さんより

父は8人の男兄弟です。父は年齢が満たなくて徴兵されませんでしたが、上三人の兄たちは徴兵されそれぞれ戦地へ行きました。誰もがもう会えないだろうねと思っていたそうです。
しかし終戦になり、三人の兄たちは無事に帰ってきました。家族はとても喜んでいましたが、隣の家は二人息子は二人とも戦死だったそうで、親たちになぜあなた達だけ運がいいの?と妬まれとても辛かったそうです。

匿名さんより

体験談として伝わっているわけでは無いですが、生前末期ガンを患った父が突然うちの門中墓は沖縄戦時代は日本軍の弾薬置き場だった、今でもあると言い出し、実際に警察立ち会いで墓の中を調べたら本当にありました!弾薬!
今は撤去されていますが、あなたの門中墓の中にもあるかも知れません

匿名さんより

貴重な話聞かしてくれてありがとうございます、沖縄戦の事はプロパガンダか何か知らないけど悲惨な話しか聞かないからこういう話が聞けて良かった、今を生かしてくれた先祖に感謝ですね。

匿名さんより

私の両親は他界していませんが、小さいころから聞かされていた事、戦争体験した学校の先生から聞かされたことは似ています。今の北朝鮮みたいだった、アメリカに負けてよかった。平和になった。

minakoさんより

私の祖父は地上戦で列をなして歩いている時に空から銃撃されたようです。祖父の前の人まで倒れこんで、祖父は弾が当たらず助かったと。私の命は、私だけのものじゃないと感じています。今、島根県で暮らしていますが保護猫や虐待されている犬達を助けたりしています。人にも優しくありたい。亡くなった人達のぶんまで価値ある生き方をしなくてはならないと思っています。

匿名さんより

うちの祖母の話。
祖母は戦前内地の紡績に働いて財産作って帰って来たそうです。それでおじーと結婚して。おばーば上等な着物を数枚持っていて戦時中もその着物袋は手放さず大切に持って逃げたそうです。
戦後アメリカ兵が来て皆をトラックに乗せて移動先へ。
降りる時にその着物袋をどこかのおじーが横取り。大人しいおばーが追いかけて返してと言ってもこのやなおじーは私のだ!と返さずおばーを突き飛ばして逃げたそうです。それを見てた父から聞きました。幼い父はその姿が忘れられないと。
戦後地域分けして焼け残った大きな屋敷に何家族かですんでたようです。
その屋敷の主は違う所で疎開してたようで戻って来た時は家宝は全部無くなってたと。
父達が住んでた時は既になかったようでアメリカ兵が戦利品として持って行ったはずねと。
火事場ドロボーは戦時中にもいたんだね。

匿名さんより

皆さんのソフトな語りでも目頭が熱くなりました。
でも気丈なオバーの話を聞いて、不謹慎にもクスッと笑いが出ました。
沖縄のオバーは戦時中でも強いですね。
泥棒オジーを追っかけて跳び蹴りして着物を奪い返して…
あれ?違いました?

匿名さんより

現地の生の声は人間味溢れる話が多いが
県内2大紙から伝わってくるのは国を貶め、日本軍を兵隊を貶める反日プロパガンダ
ばかり、これでは益々購読者が減る一方

匿名さんより

昔の職場で聞いた話。ご両親が沖縄出身という方がいらしたのですが、その方のお祖母様から昔聞いた話によると、日本軍のほうがよっぽど怖かったそうです。「水をくださいと言う言葉さえも寄越せと乱暴だし、食べ物を分けてと言わずに勝手に畑に植えてたなけなしの野菜を引っこ抜いて持っていってしまったよ。多分戦前は普通の人だったんだはず。でもその形相があまりに怖くて誰もその人を止められなかったさ。」と同じ日本人でもこんなに人が変わるんだとしたらこれも戦争の怖さなんだと思ったそうです。

匿名さんより

戦争で人が変わるが、
本土は元々競い合い、攻撃、戦って制して天下を取ってきた歴史があるから、
うちなんちゅとは違うよ。攻撃的な本土、
保守的な沖縄。
その精神が戦後の日本復活の原動力なんだけどさ。

匿名さんより

今は亡きオジーが言ってたけど、オジーは役場に勤めていて、戦前に大和から来た人が役職についてたけど、戦前戦後のドサクサに勝手に土地の売買をされて、土地を無くした人も少なくなかったらしい。
戦後の土地所有者が帰ってこない土地も多かったし、書類も残ってないしだそうな。

匿名さんより

戦争経験者でも無い私が、海外生活で日本人と言う事で差別を受けました。
「お前達日本人が我々を攻撃した!」
口汚く罵られたり、酷い時は突き飛ばされた事も。
それ以来、怖いので「私は沖縄出身です。」と言って身を守りました。
今から10年以上前の数年間の話です。

匿名さんより

50年以上前に、祖母から聞いた話です。
  終戦後、農作業をしてたとき…突然、遠くから悲鳴が聞こえ、アメリカ兵が逃げ回る女性を連れてどこかに行ったそうです。     祖母は、恐くて身動きできず、息を潜めて隠れることしかできなかったそうです。          

匿名さんより

スレ主です。
たくさんの話を有難うございます。
明日は慰霊の日、正午には時報にあわせて手ィウサーしましょう。
先人に誓います、私たちは戦争を起こしません。(-人-)

匿名さんより

朝は雨でしたが上がりましたね
蒸し暑いこんな時期に逃げまとうのは辛かっただろうな、、

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